「キノトリ」と自由の感度 -地域の学校vol.3-

いま、塩尻で新しい学校をつくろうという動きがあります。
0からつくる、まったく新しい民間の学校です。この学校を、どんな場所にしていくか?
子どもたちのために、どんな授業や、どんな人が必要だろうか?
今まさに、学校のアイデアは広がっている途中です。
本連載では、このミーティングの内容を中心に、学校をめぐる動きをレポートしていきます。

今回は「学校をつくるというゴールに向けて、いまどこにいるんだっけ?」という確認をする機会になりました

「キノトリ」と自由の感度 -地域の学校vol.3-

1月24日のミーティングには、初めて参加された方もちらほら。

ゆっこの部屋では、会が始まる前の「チェックイン」として、参加者がいま感じていることを簡単にシェアする時間があります。たまたまこの日参加した11名のうち、3~4名ほどが「自分のこれまでの生き方を見直す時期にある」という考えをシェアした人がいました。生き方がこれまで通りではいけないと感じるのは、子どもだけではなく大人にも共通して言えることを実感しつつ、会に入ります。

今回は、「学校をつくるというゴールに向けて、いまどこにいるんだっけ?」という確認をする機会になりました。

キノトリ=「木鶏」とは?

まず、学校について今決まっているのは、キノトリ学園という名前です。
キノトリの由来となった「木鶏」(もっけい)は中国の故事で、鶏が木彫りの鶏のように全く動じない状態、すなわち闘鶏における最強の状態のことを指します。
そもそも木鶏(もっけい)とは、どんな内容の話だったかを見ていきました。

Wikipediaをもとにあらすじを簡単に書きます。

闘鶏を育てる名人が、鶏を預けた王の質問に答えながら、最強の鶏について説明します。
預けて10日ほど経過した時点では、『まだ空威張りして闘争心があるからいけません』と答えます。
また10日ほど経過すると 『まだいけません。他の闘鶏の声や姿を見ただけでいきり立ってしまいます』と答えます。
さらに10日経過後『目を怒らせて己の強さを誇示しているから話になりません』 と答えます。
さらに10日経過して王が問うと 『もう良いでしょう。他の闘鶏が鳴いても、全く相手にしません。まるで木鶏のように泰然自若としています。その徳の前に、かなう闘鶏はいないでしょう』 と答えます。
荘子はこの故事に例えて、「真人(道を体得した人)は他者に惑わされること無く、鎮座しているだけで衆人の範となる」と述べています。

この話の中で大事なのは「己であれ」ということです。
今の時代は、誰かが生き方のレールをしいてくれるような時代ではなく、生き方そのものを自分で考えなくてはなりません。これまでのように誰かと同じに行動するのではなく、一人ひとりちがってもいいという肌感覚のもと、ひたすらに自分自身を生きることが大切だとゆっこさんは語ります。この、「一人ひとり違ってもいいという肌感覚」は、今の義務教育のしくみのなかで実現させるのはなかなか難しいと考えるからこそ、学校を自ら作るというアイデアにたどり着いているのでした。

学校づくりの先輩に学ぶ

また、ゆっこの部屋では、3月28日に一人の先輩にお話を聞く機会を検討しています。
お迎えするのは、教育哲学者の苫野一徳さんです。苫野さんは、教育哲学者として著書を多く持ちながら、いままさに軽井沢町に新しい学校をつくろうと活動されている方でもあります。「風越学園」という学校は、2021年春の開校に向けて動いています。

そんな学校づくりの先輩である苫野さんに、「学校を作る過程の話を聞いたり、自分が考えている学校像をお話したりしたいと」、ゆっこさん。でも、せっかく苫野さんが塩尻にいらっしゃるからと、メンバーで学校のことだけでなく教育について広く苫野さんとお話しするイベントを企画しています。

さらにさらに、苫野さんがいらっしゃる前に著書をたくさん読んでみようと、「塩尻未来会議」において読書会を企画。著書から厳選した数冊を、アクティブ・ブック・ダイアローグという形式で読む会を行っています。

今までメンバーが読んできた重要な概念の中に、「自由の相互承認」という言葉があります。
苫野さん自身、風越学園のブログの中で、この概念を紹介しています。(以下ブログより引用)

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だれもが「生きたいように生きたい」と願っています。学校は、そんな子どもたち一人ひとりの「生きたい人生」を共に考え、それを実現するための力を育む使命を持っているのです。
その一方で、それぞれがそれぞれの〈自由〉をただ主張し合うだけだと、激しい争いになってしまいます。その結果、自分自身の〈自由〉もまた失ってしまうことになるでしょう。
だから私たちは、他者の〈自由〉もまた認め、尊重できるようになる必要があります。
これを〈自由の相互承認〉と言います。この感度をしっかりと育むこともまた、学校教育の大事な使命です。

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木鶏の故事と、「自由の相互承認」の概念は、人が生きたいように生きることを認めるという点で共通しています。言い換えれば、自分が自由であるという感覚を持つことと、他の人も自由であることも認めること。風越学園は、こうした自由の肌感覚を学ぶ先駆け的な学校になるはずです。著書を通じて内容を学ぶほど、学校づくりを進める苫野さんに会う期待が高まります。

なにより、こうした話をすることを通じて、自分自身の考えを表に出したり、相手の話に耳を傾けたりする時間は、「ゆっこの部屋」に参加しているメンバーにとっても貴重な時間になっています。
一人で考える時間はとても大切だけれど、何かに気づくペースは遅くなる。一方誰かと話してまったく異なる価値観に触れると、自分のことに気づくことにもつながります。何かに行き詰って他者との関わりが必要になるとき、そこに学校や社会が存在する意味もあるのかもしれません。

今回企画している苫野さんのイベントをきっかけに、十数人ではじまったゆっこの部屋の動きを更に加速していけたらいいなと考えています。

次回は3月2日に開催予定です。